バリホリィズストーリー
私達姉妹がなぜ、バリ島とかかわりをもち、 |
バリ島との出会い
おばあちゃんや母の姉のおばさん達が、ゆかちゃんの妹が産まれたよ!と賑やかに喜んでいたのがまたうれしかった。 ずっと「妹が欲しい」と、母にお願いしていたが、お願いが叶い、妹が誕生した! その日から、私達は堀家の二人姉妹で育ち、そして、姉の由香里が20歳、妹の和美が14歳の時に、父親が単身赴任でインドネシアに行く事となる。 姉は看護の学校に行き、看護師の道へ・・・そんな姉を見て妹の和美も同じ看護師の道へ行く。 6歳離れていた私達は、小さい子供の頃はよく姉の後を追いかけては遊んでもらっていたものの、いつしかお互いの遊びが変わってしまい、友達と遊ぶ方が楽しくなり、一緒に遊ばなくなってしまっ ていた。 ![]() そして、、お互い看護師として病院で働くようになり、看護師の勤務は不規則、平日の昼間に友達と休みが合う分けもなく、でも、同じ不規則な仕事をしている者同士どこか休みが合い、自然と姉妹2人で休日に遊んだり、ショッピングしたり、お互い同じ仕事をしていると相談相手になったり、愚痴を聞きあった。 2005年父親が母に「バリ島には職人が手作りで作る良い商品や、物がたくさんある。 ![]() そして、バリの職人の手から作られる、食器、家具、木工品に石像に絵やアタ商品、女に人が手間隙かけて織り上げるイカット布に、何回も時間をかけて染め上げるバティック布など、バリ島の豊かな自然と、バリ・ヒンドゥーの生活や文化の中で独特の感性から生まれる品物。 バリは人の手から作られる数多くの魅力ある品物にあふれていて、 2006年自社サイトを立ち上げネット販売を始める。 |
母の病気
母は、20年間やっていた詩吟を先生が奥様の介護をしなくてはいけなくなり解散、 今まで人間ドックを受けたことないから、人間ドックでも受けてみたら?と娘2人で進め、受けるも結果は特に悪いところもなく。 ところが声の方は聞いている方も明らかに分かるほど、口が回らず、うまくしゃべれない子供みたいな話し方になり、これはおかしいと総合病院に受診し、脳梗塞の疑いで入院し治療を受けるも退院の時は入院とまったく変わっていなく、特に原因も分からなく、病名も分からず、でも症状は進んでいくことに、母本人の気持ちまで不安で壊れていく・・・。 そして、霊能者のところにたずねて仏壇を購入しそうになったり、デパートで電気が流れて座ってるだけで血流が良くなり、今までに色んな病気がこれで治ったと聞き、100万円もするような機械を買いそうになったりし、ひとりで行動させるとどこで何をするか分からず・・・。 心療内科の受診を進めてかかり、新幹線で東京まで出て行き気功術で体を良くする先生がいると聞き、最初に見ていただいたときは本人もびっくりするくらい改善し、こちらも良かったと思っていたが、先生に病気の進行が早いようで治療が追いつかないと、何回かかかるもその後あまり改善されなかった。 耳鼻科でも一回見てもらうかと姉が連れて行き、そこで違う総合病院に紹介いただき、色々な検査を経て、やっと「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」という病気だとやっと分かるも、先生から聞いたその病名に涙があふれ、夢ではないか?夢であってほしい!と思いました。 ALSという病気は、難病に指定されている病気で、治る病気ではないし、これといった治療もない病気で、筋力が徐々に弱まり、次第に日常生活が人の力をかりなくては行えなくなっていき、そして、歩いたり、食事をしたり、話す事もできなくなっていく病気です。 姉妹のプロフィールでもお話ししていますが、病気の進行は人それぞれですが、母は進行の早い方だったようで、こちらが対応していく準備をするのについていくのが大変なほど、あれよあれよと食事が食べられなくなり、歩けなくなっていきました。 でも、施設や病院で働かせていただいた経験が役に立ち、母の介護をする事ができました。 そして、ケアマネージャーさん、訪問看護師さん、ヘルパーさん、リハビリの先生、訪問入浴の方々など、大変多くの方にお手伝いしていただき、
母も毎日いろんな人に関わっていただき、来て頂くのをとても楽しみにしていました。 私の出産をきっかけに母はALSの患者さんが多くいる専門の病院に入院し、今も入院しています。 全身の筋肉が使えなくなっていき、目の瞬きでパソコンに伝えたい事を打ちコミュニケーションをとっていました。 最近は、目の力もなくなってきていますので、どうコミュニケーションをとっていったらいいのかが今後の課題です。 |
姉妹の父
父は秋田県産まれの7人兄弟の末っ子として育ちました。 大学を出て長野県に就職し、そこで母と出会い結婚しました。 父の秋田の実家には、毎年味噌が作られ蔵に何年ものの味噌樽がたくさんありました。 秋田の田園に囲まれた、本当にのどかな田舎で生まれ育った父、としお。 そんな父 としおの嫌いな食べ物は『味噌』。 なのでインドネシア料理にもすぐなれ、日本食が恋しいなんてこともないのです。 インドネシアに在住して19年となってもへっちゃらなんですね。 そうそうインドネシアに行って今年で19年。すっかりインドネシア人な父 としお。日本語の方が不自由になり、私たちと話す時も一番大切なことがインドネシア語になるので、「?」となり、話しが分からない事も(笑) 単身赴任の会社の人たちは、皆さん大体メイドさんを雇って身周りの事をしてもらっているのですが、それこそ父も始めはメイドさんを雇って掃除や料理を作ってもらっていましたが、潔癖症かそうともいわないかもしれませんが、人にかまわれる事が嫌い!
日本に帰ってくると姉や私が寒いだろうと着る物を心配しても、厚着は嫌!かまうなという感じ。 夜寝る時寒いだろうと毛布や布団を出しといても、自分の掛けたい物を出して寝る。 着るものなんかも買っても、昔から自分の気に入った物しか着ない。結構、着る物にもこだわりがあります。
時計などの装飾品はもともと興味がないらしく、着けない主義。 なので今も父はインドネシアで一人暮らしをしてますが、さほど困る事もないらしく、自分で洗濯して干し、マイペースに掃除し、夕食はお付き合いで食べる事が多いみたいですが、自分で食べたい物を料理して食べ、自分のことを自分のペースでやりたい人。 普段もポロシャツ、短パン、サンダルで会社内歩き、たまにポロシャツに穴が開いていたりなんかして、インドネシア人の社員の方から、社長!もっと社長らしい格好をしたほうが・・・と逆に言われるらしい。
そして、意外にも健康おたくなんです。 健康の為とインドネシアに行ってからゴルフを始め、カートを使わず歩いて、朝の5時にゴルフをしてから会社に行ったり、プールで泳いだり、運動をし、太ると体が重くなると体系を保ち、漢方を飲んだり、食事にも気を使う父、としお。
やっぱり、母が病気になりインドネシア人の親しい人にも、日本に帰り奥さんの傍にいてやった方がいいのではないかと言われたそうです。 でも、父は私たちが小さい頃から仕事に生きてきた人。 姉は本当に小さいとき、会社に寝泊りしほとんど帰ってこなかった時期があり、たまに父が帰ってくると、"おじさん"が来たと思っていたようです。 それこそ会社にいるほうが落ち着く人。 冬は近くのスケート場に連れてってくれた父ですが、何時に迎えに来ると姉と私をスケート場においていき、会社に行って、また迎えに来る父、としお。 そんな父ですから、父から仕事を取ってしまえば抜け殻になってしまうだろうし、母の介護だなんてできるはずが無い、やりたいようにやれるまで仕事をすればいいと、介護にも色々お金がかかるし「稼げるうちは稼いで下さい」と言い、2人で介護する事にしました。 |
姉妹の事
妹かずみは、2009年に結婚し長男を出産。 お互い、子育てで何かあっても自分の母親に相談したり頼れないので、お互いに相談しあったり、一緒に出かけたりしています。 2人とも子育てしながらで、思うように仕事ができず悶々としながらの毎日ですが、今できる事を少しずつでも毎日前進しようと思っています。 |
目標
現在、子供が小さくて仕入れにいかれない私たちの変わりに、全て父が変わりに仕入れをしてくれていますが、子供達がもう少し大きくなったら、自分達の目で見て選んだバリ島のすばらしい品をもっとご紹介したいですし、私たちが見て体験した事などを発信していけたらと思います。 ジェンガラ・ケラミックの認知がもっともっと広がり、ジェンガラを購入するならバリホリィズだと言っていただけるようなお店にしていきたいです。 自分がお買い物するならこんな店がいいというお客様の気持ち、目線を考え、ご指摘いただくところは改善していき、日々、お客様とバリホリィズを成長させていきたいですし、たくさんの方とFacebookやメルマガを通して繋がっていきたいです。 商品と一緒に、梱包を開けていただいた時に、バリ島の神秘と癒しを一緒にお届けできたらと思っています。 まだまだ未熟な私たちですので、ぜひお声をお聞かせいただき、バリホリィズを成長させていただければうれしく思います。 |